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あの約束を覚えていますか

「あの約束を覚えていますか」。真摯な態度で男が囁いていた。昼過ぎにテレビから流れるドラマをかけっぱなしにしていた。古いドラマの再放送をしている。過去の同級生に再会して、恋に落ちる話だ。なんて非日常的で、ドラマチックな展開。いつの時代も現実味の無い作り話というものは需要があるのね。平凡な毎日に飽食しているのだろうか、多くの人々は。そんな飽きるほどの平穏も悪くないものだというのに。そんなことを思いながら、わたしもそのドラマを最後のエンドクレジットが出るまで見続けてしまった。
 結局、わたしもどこにでもいる主婦と変わりないってことかしら。

 ああ。そういえば。

 もう古い記憶であまり鮮明には思い出せないけれど、あのやさしい眼だけはきっとこれからも忘れないだろう人が、記憶の中にいたことを思い出す。確か、そう、早坂久宜。その人の名前は、早坂久宜。彼は今頃どうしているのだろう。

 遠い昔、まだわたしが生まれた街で今と同様、平凡に暮らしながら未知の未来へ思いを馳せていた頃のこと、わたしと早坂久宜は同じクラスで机を並べていた。早坂久宜、わたし、共に17歳のことである。

 早坂久宜は背の高い青年だった。比べてわたしはどちらかと言うと前ならえも前列のほうにいる少女だった。早坂久宜は外交的で、友人の質も広そうで、多くの人間が彼をそこそこに愛していた(と思う)。比べてわたしはどちらかというと内向的で、友人も限られたタイプの子ばかりと付き合う。そう、わたしたちは同じ教室、同じ街という同列の空間にいながら、まったく異なる対極。そんなわたし達が共に並んで歩くようになったのは、クラスの当番決めのクジで、ふたりとも飼育委員に選ばれてしまった17歳の初秋。これから徐々に風が冷たく感じる季節に、わたしたちははじめてお互いに名乗り、目を合わせて、「よろしく」と言い合った。

 雪国の小さな高校で飼育されている動物なんて、たかが知れているもので、数羽のにわとりと、うさぎが木製の古くて汚れた小屋の中に押し込められているのが相場だ。わたし達の学校も、例に漏れず数羽のにわとりとうさぎが狭い中で糞尿に混じったそれぞれの餌の臭いと共に、共存していた。にわとり達はうさぎの方に寄ろうともせず、自分達のテリトリーを行ったり来たり歩き回っていた。うさぎもにわとり達の方へは寄らず身を震わせてちいさくなっていた。

 わたしと早坂久宜は、これから春になるまで毎日この場所で会うことになる。なんというか、青春のロマンスが始まることは決してなさそうだなとわたしは思った。早坂久宜はこの臭いに文句も言わず、マイペースに黙々と箒を動かしている。力強く、ざっざっとごみと糞の塊が集まっていく。わたしは動物達を一旦非難させながら、早坂久宜を見る。

 早坂久宜はわたしから話しかけないと、あまり会話してはくれなかった。クラスの中にいるときは、早坂久宜の周囲には必ず誰かクラスメイトがいた。早坂久宜は成績もいいし、顔もそれなりに整ってるし、みんなに人気があるみたいだった。わたしが教室の後ろ、奥のほうで似たような外見をした友達と囲うように集まって話しているとき、ふと教室の中央に目をやると、そこには早坂久宜がいて、彼はいつも微笑んでいた気がする。それなのに、こうしてわたしとふたり動物の世話をしているときの彼は、こんなにもしゃべらない。

 はじめての仕事を終えたわたし達の周りにクラスメイトおろか生徒はひとりも見当たらなかった。まだ夕方、暗くはない。早坂久宜とわたしは奇遇なのか残酷なのか途中まで帰り道が同じだった。今まで全然知らなかった。15でこの高校に揃って入学した頃からもう2年も同じ道を歩いてきたはずなのに。

 校門をくぐり、平坦なアスファルトの道をふたりで歩いた。早坂久宜は歩くのが遅い。遅いというか、なんとなく"女の子と歩くためのペース"を守っているのでは、そんな気がした。おいていかれる心配はなかった。だけど喋らなかった。どうせなら早足で歩かれて、他のクラスメイトの男の子のように「追いてくぜ!」みたいな捨て台詞を吐いて、ひとりいなくなってくれたほうが楽だったのではと思った。

 わたしはひどく緊張していた。錆びて剥げ落ちた水色の歩道橋の上で、わたしたちは別れ道になった。早坂久宜は左に。わたしは右に。早坂久宜は足を止める。わたしもつられて止まる。空は烈火のように赤い。まぶしいのが嫌いなわたし。この夕焼けにずっと照らされているのはつらかった。

 「nameさん」

 ふいに、早坂久宜は放課後に出会ってから2度目ぐらいの言葉を発した。(ちなみに一度目は、「よろしく。」だった)

 「あのうさぎはなんの為に生かされているんだろうね」

 早坂久宜はそう言って手摺りに寄りかかった。夕焼けを背景にして早坂久宜の影が伸びる。わたしの影と同じ方向へ伸びる。わたしはまぶしさに目を細めた。早坂久宜の肩越しに、ちょうど太陽が落ちてゆく。

 「と…言いますと」。どういうことでしょうか。緊張に耐え切れなかったわたしが訪ねると、早坂久宜は眉を下げて困ったような笑顔を浮かべた。

 「あの小屋はそれほど広いわけでもないのに、どうしてあのうさぎだけうさぎなんだろうか。他は全部にわとりなのに。だったら、にわとり小屋にしてしまえばうさぎの餌を買ったり、うさぎ用の設備を作ることもない。どうしてにわとりの中に、わざわざうさぎを入れておく必要があるんだろう」

 早坂久宜はそれきり黙っていた。その時わたしは何も言い返すことが出来なくて、「ごめん、よくわからない」と苦し紛れに言葉を搾り出すしかなかった。早坂久宜は「ごめん、忘れてくれ。それじゃあ、おやすみ」と左側の階段を降りていった。わたしは歩道橋の中央に立ち尽くしたままで、遠くなる早坂久宜の背中を目で追っていくのが精一杯だった。

 翌日。早坂久宜のいるべき場所に、早坂久宜はいなかった。その翌日も、その次の日も、早坂久宜は姿を現さずに、そのまま一週間以上が経過していった。担任が連絡を取り、早坂家を訪ねるとそこには何もなかったそうだ。早坂久宜は、早坂家はこの街から忽然と姿を消したのだった。

 早坂久宜はどこへ消えたのか。しばらくこの話題でクラス中は盛り上がった。わたしを取り巻く友人達も、その話の輪に興味深そうに入っていったが、わたしはいつもと同じ教室の奥の席にただ座り続けて、校庭の一角にあるわたしの担当する、正しくはわたしと早坂久宜の担当する飼育小屋をみつめながら、動物達とあの日の早坂久宜のことを思い出していた。

 早坂久宜がいなくなったので、新しく別の男の子が飼育委員になったが、その子はわたし以上に仕事をサボるタイプだった。仕方なく、わたしは3度目の掃除からはその子が何もせず、鉄棒で遊んでいても、友人とカラオケに行っても、ただただ黙って仕事をし続けた。まるで一番最初の早坂久宜のように、黙って、黙々と、マイペースに。にわとり達は元気で、卵を生んだ時はみんなが見に来た。しかし、早坂久宜がなんの為に生きているのかと称したうさぎは、体力が衰えていって、12月に死んでしまった。どう処理していいのかわからなくて、2日ぐらい放置してしまったが、いくらなんでも基本衛生的に、精神衛生的にも悪いので、埋めてやることにした。

 もう死んでしまっている灰色のうさぎ。わたしはそのうさぎを思い出すとき、心の中でなんとなく、"久宜"と呼ぶようになっていた。久宜、久宜、久宜は死んだ。本物の久宜も死んだのだろうか。あの日、はじめて会話をして、それが最後になってしまった、早坂久宜という人間が、今どうしているのかを知る術はわたし達の街の人間には無かった。クラスメイトの誰も行き先を知らない。後で知った事だが、早坂久宜には親戚というものも存在していなかったらしい。同じクラス、同じ学校、同じ街、同じ国、同じ世界に生きているはずの早坂久宜という男。それはわたし達の思い違いだったようだ。あの日、彼はわたしに彼が隠していた闇の一部を、思いがけず一瞬垣間見せてしまったのだろうか。あの時の困ったような笑顔は、いったい何を意味していたのだろうか。そんなこと、今となってはもう解らない。きっとこれからも、死ぬ間際にも、わたしはあの早坂久宜の真実を知ることはないのだろう。あの頃、わたしたちは17歳だった。結局、わたし達に真に共通していたのはそれだけだったのかもしれない。同じであるはずなのに、違う世界に生かされていたわたし達と早坂久宜。まるであの飼育小屋のうさぎと、にわとりのように思えた。早坂久宜は、にわとりの中に居続けにわとりのように振舞うことに疲れてしまったのかもしれない。理由はわからないけど、なんとなく、早坂久宜は失踪、誘拐、さまざまな線で捜索され続けていたが、今になってみれば、彼はやはり自発的に姿をくらましたのではないだろうか。

 それでも結局、早坂久宜が、あの歩道橋の上でわたしに何かを伝えたかったのだとしたら、何を示したかったのかは謎のままだ。その後、わたしを含めたクラスメイト達は、特に何事もなく高校を卒業した。早坂久宜の記憶を徐々に薄れさせながら。わたしは東京の会社にOL勤務をして、その後社内恋愛をして、ほどなくして結婚した。もう子供もいる。ごくごく平凡に、ごくごく普通に、世の中の動きを追うわけでもなく、危ない橋を渡るわけでもなく、できる事を無理せずにこなして生きて、今に至っている。わたしはそんなごくごくありふれた主婦だ。もし、早坂久宜がわたしに何かを感じて、わたしだけに何かを残そうとしていたのなら、わたしは彼をささやかに裏切ってしまったのかもしれない。20年後に思い返してももう遅いこと。それでもわたしが早坂久宜という名前と、はじめて「よろしく」と目を合わせた瞬間を忘れられないのにはなにか理由があるのかもしれない。運命?絆?…なんて。ドラマチックな事を考えても、もうわたしは平凡な主婦で、平凡な母親。どこにでもいるありふれたおばさんなのだ。

 答えの出ない不毛な回想は、もうやめよう。来月の同窓会の時にでも、酒の肴にしてみればいい。「早坂久宜って、おぼえてる?」って。きっと大半が「ああ、そんな奴もいたなぁ」って反応するに決まっているのだから。過ぎていった人間とはそういう対象にしかならないのだから。もう二度と、会うこともない過去の同級生、早坂久宜。数回眼を合わせたぐらいの、なんのことはない過去の同級生、早坂久宜。失踪直前に、「忘れてくれ」と笑った早坂久宜。ああ、ごめんなさい久宜くん。わたしその約束守れてないわね、こんなにも時は過ぎたのに。

 もしかしたら、こんなに月日が経っても忘れていないなんて、わたしは彼のことが少し好きだったのだろうか。なんてね。おばさん心にそんなことを思い出していると、玄関のチャイムが鳴った。宅配便かしら。またあの人、わたしの知らないうちに通販したのね。もう一度鳴らされるチャイムに、わたしは「ちょっと待っててくださぁい!」と、慌てて判子を握り締めて玄関に向かった。